驚愕のchat GPT 信長の生存で歴史は変わる 歴史の推測 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

驚愕のchat GPT

歴史の推測

信長の生存で歴史は変わる




 最近何かと話題のChat GPT。サンフランシスコのOpenAI社が生み出した最新のAIチャットボットである。
windows以来の発明ともいわれ、google社では全社内緊急事態宣言も出たというネットの革命にも等しい優れものである。
検索のgoogleはいわば探しているものの「資料」を出してくれるが、今回のchat GPTは答えをtext形式で出してくれる。
今後AIが増々学習して完成度の高みを目指すだろう。私も早速ダウンロードして使ってみた。
当ブログは日本史が専門だから、以下の質問をしてみた。

質問 「織田信長が本能寺で死ななかったら戦国時代はどうなったの?」

その答えが以下になる(原文通り)。
織田信長が死ななかった場合、戦国時代の歴史は大きく変わっていた可能性があります。以下に、その可能性をいくつか考えてみます。

一、織田信長の領土拡大が続く
  織田信長は、多くの戦いで勝利を収め、領土を拡大していきました。もし彼が死ななかった場合、領土拡大を続けることができたかもしれません。その結果、織田氏が全国的な支配力を持つことになり、戦国時代はさらに短くなっていたかもしれません。

二、織田信長の後継者問題が発生する
  織田信長は、弟の織田信行や、息子の織田信忠、織田信雄など、多くの家臣たちによって支えられていました。もし彼が死ななかった場合、後継者問題が発生する可能性があります。信長自身は、弟や息子たちを評価していなかったことが知られています。
そのため、後継者争いが勃発し、織田氏内部が分裂する可能性があります。

三、織田信長と豊臣秀吉の関係が変わる
  織田信長は、豊臣秀吉を重用していました。秀吉は信長の死後、天下人となり、独自の政権を築き上げました。もし信長が死ななかった場合、秀吉の台頭が遅れ、彼が天下人になることはなかったかもしれません。
また、信長と秀吉の関係が変わり、秀吉が信長の敵となる可能性もあります。

四、戦国時代が長引く
  織田信長は、織田氏の勢力を大きく拡大し、戦国時代に多大な影響を与えました。もし彼が死ななかった場合、戦国時代が続くことになり、他の大名たちが彼に対抗するために同盟を結成する可能性があります。
その結果、戦国時代が長引くことになったかもしれません。


以上が、織田信長が死ななかった場合の答えです。嘘八百を垂れ流す凡俗歴史屋より余程ましで賢い。だが間違いもある。完成度を高めるのは今後の課題だろう。
以下に項目ごとに検証してみよう。

一、に関しては正しい。
  本能寺の変、天正十年六月の時点で、羽柴秀吉は毛利を攻めていた。柴田勝家は武田信玄、上杉謙信亡きあとの北陸攻め、丹羽長秀は関東攻略。
  四国は三男の織田信孝が住吉浦から艦隊を揃えていざ出帆の準備だった。
  明智光秀は秀吉の応援に行く予定だったから、毛利は降伏するだろう。いずれ関東の北条や伊達、佐竹も降伏し、残る九州の大友、鍋島、島津も降伏し日本平定は成される。
  と書くと疑問を呈するむきもあろうが、圧倒的な織田軍団の鉄砲の数、即ち「火薬量」が勝敗を決するからである。
  信長は堺とマカオ間に火薬輸入の定期航路を開いていて(火薬輸入長官ともいうべき奉行に松井有閑を任命していた)、火薬の吟味に家臣を同乗させるほど、独占的に押えていたからである。
  信長は外来の朝廷官位である右大臣や太政大臣は受けず征夷大将軍として、ヤ衆、即ち海洋渡来系民族の大同団結を計り、騎馬系民族とも連携し安土幕府を開くだろう。

二、に関しては間違い。兄弟より息子達にそれぞれ関東、東北、中部、関西、中国、四国、九州を与え、兄弟はその補佐に当たらせ統治する。(信長の兄弟は全て異腹のため、信長は信用していなかった)
  「息子たちを評価していなかった」は間違い。信長は森蘭丸や佐脇藤八、山口飛騨、らの小姓団を幼少から戦場に連れ歩き、現在の参謀教育をしていた事実が在る。
  息子たちにも同様の教育をしており、幼少からそば近くに置き、己の戦い方を見聞させる実践教育をしていたから、武将としての力量は備えていた。
  信長が存命なら後継者は長男信忠になる。

三、に関しては鋭い見方で感心する。
  先ず秀吉は小者から取り立ててもらった主君信長に感謝の念はあっただろう。しかし、古い家臣である林佐渡や平手正秀たちを、昔の行為を根に持ち粛清したのを目の当たりにし、秀吉はその執念深さを恐れていた。
  だからいつも    攻め取った占領地からの略奪品で豪華な貢物を信長に送り歓心を買っていた。そして信長の側近小姓の長谷川秀を篭絡し、常に信長の動静を探っていた。
  本能寺に信長が何を目的に入ったかの意味も知っていた。それは徳川家康を殺すためである。何故なら、
  家康は一介の土民から成り上がり、今までの名乗り世良田次郎三郎を捨て、三河の名門松平元康を安倍大蔵の息子弥七郎に殺させこの事件を奇禍として身代わりとして信長を騙して清州城盟約結んでいた。
  この清州城盟約というのは、


 一宮国府神社や津島明神の護符を三方に並べて、二郎三郎の方へ押しすすめ、「この和平の談合は信長の方よりいい出したり、これを求めたものではなく御貴殿よりの申し出よって此方は受諾するもの。
 よって双方取り換し合うこれなる誓紙に、もし一個所の相違や違約があった場合は……それを問い糾したり釈明を求めることなく信長は御貴殿をば直ちに神かけて殺拉する。」
 「天地神明に誓って違背などこれあるまじく……」と二郎三郎は答え、成立したものなのである。
 
 これぞまさしく私文書偽装であり、他人名義を詐称しての自書捺印など何の効力も発生しないのはその当時であれ決まりきっていたからである。
 家康としては乾坤一擲欺瞞の大勝負だったろう。しかし恐怖心の裏には冷徹な計算もあり、このことが発覚したら信長に殺される前に殺してしまえば済むと性根を付けた。
 武田信玄は次郎三郎の身代わりを「あ奴、うまくバケおって・・・・」と知悉していたが、信長が知ったのは恐らく天正十年の初め頃だったろう
 したがって天正十年、殺されるのは家康になる。これを知った秀吉は一層用心深く信長に仕え、ライバルの明智光秀と共に信長旗下の最重要な武将として存在する。そして秀吉天下の時代も徳川時代もない。


四、に関して三で記したように戦国時代は早く終わるが、欧州列強との軋轢は強くなるだろう。
  何故なら信長の尊大さ、自信過剰と旺盛な好奇心、新奇物好きの性格による宣教師たちへの態度である。
  信長は宣教師たちを「火薬の売人」ぐらいにしか見ていなかった。そしてキリスト教の布教にも危機感はなく、日本人がそんな異教の教義を理解できるはずもなく野放し状態だった。
  
  さらに己を神に見立て猫目石(大理石)の仏像を作らせ、安土や近隣の領民に礼拝させ、あろうことか宣教師にまでこれを強要した。
  キリストを唯一絶対の神と讃える彼らとしてはまさに「悪魔の所業」だったろう。だから宣教師たちは信長を恐れ憎みいずれ「排除」の対象としていた。
  また、宣教師たちは硝石(火薬)の産地であるチリーを隠すため、マカオが原産地と騙していた。ために信長は「マカオを占領すれば火薬の独占ができる」と考え、
  外板に鉄板を張った外洋艦隊まで造らせ外征の準備さえしていた事実が在る。
  従って、スペインやポルトガル欧州勢との戦争は十分考えられるが、和平は成され明治維新より三百年も早く開国し海外文化を取り入れ日本は東洋の強国として存在する。
  総論として歴史にIFは無い。しかし正しい史観によっては正しい推理は成り立つのである。